| 濱田 孝治 社長 「『アンテナ』と『知恵』を駆使し、チャンスと思えば掴む!」 |
製薬会社の新薬開発では、承認までにかかる15年以上の期間と多大なコストが課題となっている。
同社の開発した「TOXランチャー」は、「医薬品等安全性試験支援システム」をモジュール化し、
必要な部分だけを利用できるようにするという手法を用い、コストダウンと合理化を可能にした。
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起業を志したのはいつ頃ですか?
元々父が鉄工所を自営していたんですよ。だから、普通に「仕事って自分でやるもんなんだ」というイメージがあったんですね。小学校5、6年生の時には、作文に「社長になる」と普通に書いてましたね。
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その気持ちが現実的になったきっかけは?
父が鉄工所を経営していたので、私は「早く自分も手に職をつけて働きたい」というのがあって、
工業高校に行きたかったんですが、父には「大学に行くかもしれないから普通科に行け」と
言われたんです。
結局、普通科に進学したんですが、高校1年生(30年前)のときに、
当時東京電機大学の教授をされていた安田寿明さんという人の書いた「マイ・コンピュータ入門」という本を読んで非常に感動したんです。
それでコンピュータをやってみようと思ったんです。
そこで改めて気づいたんですが、私、普通科の高校生なんですよ。工業高校に通っていれば、疑問点とかあったときに先生に相談できるわけですが、普通科では、プログラムとかアルゴリズムとか聞いてもわからないんです。
「あ、しまった!」と思いましたね(笑)。
その代わり、その頃高校に1台だけ巨大な関数電卓があったので、それを触らせてもらっていました。
そのうちに先生が「お前それだけできるんなら、成績処理プログラムを作ってくれ」と言ってきて。
…で、作ったんですが、それを先生が、「これは便利だ」と喜んで使ってくれて。
その時に、何かを作って人のためになったら喜んでもらえるんだと言う気持ちを持ちましたね。 |
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濱田 孝治 社長 |
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高校を卒業後通産省に入られたんですよね?
結局高校だけでは、全部独学ですから、ちゃんとした勉強してないんです。
それで、コンピュータの勉強をしようと思ったんですが、高校行くときに父と意見が合わずに
思い通りの進路に行けなかったから、やはり誰にも文句言わせずに自分のやりたいことを
やろうと思ったら、まず自分で稼がなあかんと。
そして、稼ぎながら自分のやりたいことをやろうと思ったら、公務員って夜はちゃんと帰れるし(笑)。
それで、親には内緒で、こっそり公務員試験受けたわけですよ。私は夜学に行きたかっただけなんです、実は(笑)。
高校卒業後は、通産省で工業標準審査官付として働きながら、大学の夜学でコンピュータを勉強しました。
勉強しながら、自分で売りモノを持たなあかんから、と思い、情報処理技術者試験を受験しました。
1回生のときに2種に合格し、2回生のときには1種も合格したんです。
ところが、その春、学内新聞に「この大学では先進のコンピュータ教育の結果、初めて4回生が1名、在学中に情報処理の1種に合格!」とか載ってるんですね。「あれ、何で2回生で合格したオレのこと載ってないんやろ?」と思いましたが(笑)。
後でクラスメートに聞いたら、「そういえば先生が授業中に『試験通ったヤツおらへんか?』とか聞いとったな」と。当時、仕事の関係で出張が多かったんで、私、授業にほとんど出てないんですよ(笑)。それで漏れていたんです。
しかし、これはもう大学行っても仕方ないな、と。
だって、そうでしょ?4年間通っても、自分が2回生で通った試験に合格する人が1人しかいないんですから。
そうなると、今度は「どうやって起業するか」という方に向いた訳です。
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医療方面に関心を持ったきっかけは?
当時、不思議に思っていたのは、これだけ寿命が延び、高齢者…つまりお客様が増えているのに、なぜ病院がどんどん潰れていっているのか、ということでした。結局は高齢化の進行により、従来の医療保険制度が維持できなくなったからですが。
これからドラスティックに制度も変わっていくだろう、世の中、カチッと決まってしまったものは、入って行っても全然面白くないけど、こういう状況にあるものはビジネスチャンスだと思いました。
そこをコンピュータを使ってシステム化していけばいいんじゃないかと。
当時、公務員をやっていましたから、東京出張が時々あり、も多かったんです。東京に行けば秋葉原で最新の技術情報が入手できるに行ける、と嬉しかったんです。なので、出張のときは、少しでも長く秋葉原にいるために、夜行バスを使用して往復をしていたんですが、たまたま隣の席に座った人が、コンピュータの部品を眺めてニヤニヤ笑っていて、何か私と同じような匂いがするんですよ。
話しかけてみたら、放射線科のお医者さんだったんです。その人も秋葉原で部品を買って帰ってきたところだったんですが…匂いがいっしょでしたね(笑)。
当時は、ちょうど医療方面にアンテナを張り巡らせている時期だったんですが、それが縁になって、その人との付き合いが始まりました。
その内に、「自分が今勤めている病院でシステム開発を進めたいんだけどできる人がいないんでやってくれないか」と誘われまして。
それで急遽通産省もやめて、大学も中退して、その病院にいくことになったと言う訳です。
その時の条件と言うのが、いずれコンピュータで独立したいので、その際には支援をしてほしい、ということで、
約束をしてもらったので、転職をしました。
21歳のときです。
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その病院では、どういうシステムを作ったんですか?
医療といってもサービス業ですから、提供するにしても品質のいいサービスをしないといかんね、と言うのがあって。
そのためにはまず意識改革をしなければいかんと。
で、病院活性化プロジェクトを立ち上げて、TQCの導入もしました。
看護婦さんの仕事も、本来は患者さんのところへ行って看護をしないといけないのに、実際はナースステーションで膨大な伝票作業もしているんです。この伝票をなくさないとサービスの品質を上げることはできない。
で、これこそがコンピュータの働く場だと考え、自分で処方箋発行システムとか作りました。
また、携帯型のコンピュータに医師が直接入力し、その内容をカルテに反映させるシステムも開発しました。
任天堂のファミコンに通信を付加して問診と検査を組み合わせた健康管理クラブも考えました。
その時は、任天堂の山内社長(当時)に許可をもらうために、いかに話すチャンスを得るかに「知恵」を絞りました。
そこで、講演会で質問をして顔を覚えていただいて、終了時に駆け寄ってお話しする作戦を実行しました。
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どうやって独立に至ったんですか?
システムを作るたびに、これは商売になると思って、独立させてくださいと頼んだんですけど、
独立は認めてもらえず、代わりに役職を上げてくれるんですよ(笑)。
それを繰り返して、とうとう事務方のトップにまで上り詰めたんですけど、私がやりたいのは病院経営ではなく、あくまでもコンピュータシステムでの独立なんです。そのようなことがあって、病院を退職し、システム開発の会社に転職しました。
転職後、数年たって突然、大手の化学会社(子会社に製薬メーカを持っています)の課長さんから
私個人を名指しで電話が掛かってきました。
実は、病院にいるときに、病院関連の研究所で、今の事業の基礎になっている医薬品の研究支援システムを開発したんですが、そこで使っているシステムが、非常に良い。実はシステム子会社と5億円以上かけて、共同で開発し、他の製薬メーカーに販売しているシステムが非常に使いにくい。もう開発予算がないが、課長の決裁権限、年間200万円で何とか少しでも作ってくれないかとの依頼でした。
そこで、ほんの少し作ってあげたのですが、ちゃんと品質保証部門の方が監査にこられて、
その部分について、5億円のシステムの使用をやめて、200万円のシステムを正式に使用することになりました。
これは、ビジネスになるということで、社内ベンチャーを提案し、少しは認められ進んだのですが、
親会社の意向もあり、その会社では、投資していただくことがやりたいことができなかったんです。
そして、この事業から撤退することとなりました。
しかし、このシステムが完成し、新薬開発のスピードが上がれば、助かる人も増える。
それなら…ということで、正式に権利を譲っていただいて独立しました。
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TOXランチャー操作画面 |
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独立するとなって、何に苦労されましたか?
会社にいたときに、受注の目処がついていた取引先が2社あったので、そこからの発注があると皮算用してたんですけど、…やっぱり甘くなかったですね。
濱田さんが作っていることはわかっているから、モノがいいのはわかっている。だから、自分は注文出したいんだけど、できたばかりの会社に注文を出すことについて上司の了解が得られない…と。
「濱田さんが死んだらどうなるの?」とも言われました。
そうすると、いきなり収入がなくなる訳です。まずは明日の食い扶持をどうしよう、ということになって。
そこからですよね。
何でもやれる仕事をしながら、でもこの仕事を進めないといけないから、
お金がなくても何とか学会で発表とかしながら、認知してもらう。
やれる仕事は何でもやりながらですから、3年から4年はほとんどシステムは開発できず…でしたね。
やがて、ある学会のときに、某大手企業の方から、
「3年前の学会で見て、いいものだというのは分かっていた。当時は購入するタイミングではなかったが、改めて説明して欲しい」と声を掛けられました。
それからですよ、軌道に乗り始めたのは。
三重県さんからの補助金(平成15年度ベンチャー総合補助金)も獲得しました。
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社長の今後の夢はなんですか?
やはり、自分の考えたアイデアで医薬品業界の研究全体を支援できたらいいな、と思います。
自分が直接研究する訳じゃないですが、
自分が作ったシステムで安全な医薬品の開発のお手伝いをできれば、
という気持ちは強いですね。
それと、やはり海外ですね。医薬品に関してはワールドワイドで、国内だけの市場ではないですから。
まずはアメリカを、その後はヨーロッパ進出を目指したいですね。
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やはり医療に対する思い入れが強いんですね。
元々、医療の世界には、ビジネスとして入ったんですよ、最初は。
「コンピュータで何かする」というところから入りましたので。
でも、こういう業界にいると、毎日患者さんを見るわけです。毎年新人の看護師さんも入ってきます。
で、例えば新人の看護師さんが、お年寄りに注射をうまくできず、何回も失敗したりすると患者さんがかわいそうでしょ?
だから、自分が風邪をひいたときなどに、点滴をもらってきて、新人の子たちにそれを打つ練習させてあげたりしました。7回くらい打ち直しされたこともあります(笑)。
でも、(自分で練習できたから)患者さんが痛くなくてよかったね、と…。そんなこともありましたね。
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これから起業する人に一言お願いします。
今までの話を聞いてると、うまいことつながってきたなあ、と思われるところもあると思うんですね。
ただ、やってきて思うのは…
例えば自分が「社長になりたい」と思って常にアンテナを張り巡らせた。その結果、コンピュータと出会えたんですね。
次は、医療がビジネスとしてのチャンスだと思っていたから、医療に対するアンテナを張り巡らせ、夜行バスで隣に座っていた医療関係者との縁ができた。
で、今度は病院の中で、皆さんが楽になることができたらな、と思ってどんどんプログラムを作っていったら、それが人の目にとまって、ビジネスの種であることが分かった。
また、「知恵」を絞った結果、任天堂の社長ともお話しできました。
ですから、社長になりたいと思うのは重要ですが、思うだけではなく、
「アンテナ」を張り「知恵」を絞って準備をするということが必要です。
そのように準備を整えたうえで、チャンスと思ったら掴む!ということが重要だと思います。 |
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※当日のインタビューは、大阪との間で、テレビ会議システムを経由して行いました。 |
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| (平成19年7月25日 インタビュー) |
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